Loading

BLOG

天才を生み出す条件

以前、藤原正彦氏著「国家の品格」を読んだときにこんな一説がございました。「国の底力の指標としての天才の話がでましたが、それではどんな条件が揃うと天才が生まれるのでしょうか。」(藤原氏は国を見る指標のひとつに天才が出ているか、を見るといいます)天才が多く出る土壌とはどういうところなのか、どういう条件が揃っていると天才が生み出されるのか…ということをお調べになったのだそうです。

天才を生み出す条件

それによりますと第一条件は「美の存在」ということがあげられていました。美の存在しない土地には天才、特に数学の天才は生まれない、と断言されていらっしゃいます。数学的天才を多く生み出す英国の田園風景の美しさ。そうした美しいものに若い時からどれだけ触れているか…が大切なのだそうです。

藤原さんがお書きになっていて面白かったのが、インドも数学の天才が多くでているのですが、インドに美しさを認めることができなかったそうです。ゴミゴミした街、およそ綺麗とはいえないガンジス川。自身の持論を取り下げないとならないか…と思いつつ、2回目にインドにいらした時にインドの数学の天才、ラマヌジャンが生まれ育った田舎町にまで出かけていかれたそうです。そこでみたものは恐ろしいほどに美しい寺院。その寺院と村の風景の創り出す美しさ。
こんな美しいところで生まれ、育ったのか…という場所だったようです。


第二の条件は「跪く心(ひざまずくこころ)」だそうです。
日本人は神や仏、そして自然に跪いておりました。インドもイギリスも神々、そして今のイギリスだと伝統に跪いている、とおっしゃる。

 

そして第三の条件は「精神性を尊ぶ風土」です。
文学、芸術、宗教など直接役に立たないことを尊ぶ風土、金銭や世俗的なことを低く見る、そうした風土だとおっしゃっています。

 

昔の日本人はこの3つを大切にしてき、中でもこの美しさ、というものが大切だということを何度も書かれていらっしゃり、数学と文学に特に秀でた人が出るのは美的情緒がとりわけ秀でているからだ、と書かれています。面白いのは、そのお話を癌学会のお医者様方の前で話されたら、その方々も自分たちも美的情緒が最も重要だと考えていると話されたということ。そして、それは土木学会でもそうであったというのです。

 

一見、全く美とは関係ないような理系の学問に携わる方々が最も重要だと考えていることが美的情緒であるということがとても印象的でした。

美しいかどうか…

どこの世界でも「美しいかどうか」がやはり大きな1つの指針となるのだな、と感じたのです。SUTEMATSUカレッジで大切にされるのも、まず「美しさ」なのです。ここは酒井校長のお考えになっていらっしゃる美しさ、というものについてまずお話されます。

それは特別なことや外見だけの美しさではなく、少し前の日本では確かにあった日常の風景の中の美しさなのです。それは人を思いやる心であったり、弱いものを守ろうとする気持ちであったり、ものを丁寧に扱い、大事にすることであったり…とごくごく普通のことです。

 

効率重視になり、インスタント、お手軽に全てができるようになり、短時間でできることが大事になった昨今の世界の中では、それはもしかしたら面倒くさく、時間がかかり、やりたくないことなのかもしれません。でも、どちらが美しいか、どちらが美味しいか、どちらが丁寧か…と言われたら、時間がかかっても、自分のことが後回しになっても、大切なことだったのではないか…と思う様々なこと。

 

わたくしたち、気づいてますよね?

 

そうしたインスタントなもの、効率を重視してきた中で落としてきたものが本当にそれでよかったの?本当にこのままでいいの?と心のどこかで思っていますよね。昔、お母様やお祖母様などに言われたような様々なこと。今はすっかり忘れてしまっていたことがありませんか。

そうしたことを思い出し、「恥ずかしい!」というお気持ちになることがありませんか。

 

やってなかったな、忘れていたな…と思うことありませんか。

何年か前に上映された「ALWAYS 三丁目の夕日」をみて懐かしさを感じませんでしたか。ああした人と人のぬくもりが少し前には確かにあったと思いませんか。そうしたものが、このままなくなってしまって本当にいいと思っていますか。

このまま、何かが違う…と思いながら、どうしていいかわからずに生きていきますか。

 

それらに対して、何を指針にして選び、生きていけばいいのか…というものを見い出していく1つの視点として「美しいかどうか」ということを何度も考えなければならないと思うのです。それは行為であったり、言葉使いであったり、振る舞いであったり、外見であったり…様々です。マニュアル通りではないもの、ケースバイケースで答えが変わるもの、それに対応するときにもどちらが美しいのか、これをするわたくしは美しいのか、という視点が持てたなら、選ぶことができるはずです。

 

そうしたことも、昔はみんながやっていたけれども今は気がつく人が少ないことは、つい美しくないことを「いつもこうだから」とやってしまったりしています。それらに対して、ほんの少し立ち止まって「これで本当に良かった?」と考え、選択しなおす時間。そして機会。昔から一貫して美しいことをされていらっしゃる方々を通じて、その在り方、振る舞いを見せていただき、「恥ずかしい!」「何をしていたのだ、わたくしは!」と自分を省みる時間は必要なのだと思います。

 

それがSUTEMATSUカレッジの中で与えられているように感じるのです。

 

 

ですから、最初は自分の情けなさに凹む方もいらっしゃるでしょう。
でも、知らなかったらずっとそのまんまなんですよ?恥ずかしいなんて一時のものですもの。そうしたことが知れた、ということがとてもとても大きかったですね。
だからこそ子育て中のお母様のNさんは「こうしたことを絶対に子供に伝えていきます!」とおっしゃっていらしたのです。

 

本当に日常のことですよ。
例えば、落ちているものを拾う時に腰をまげてものを取ってませんか。
ちゃんと膝を折って、腰を落として拾っていますか?面倒でも腰を落として膝を折って座って取ったほうが美しいですよね。(←主人の父がよく「ちゃんと屈んで!」言って母を叱ったといってました)

わたくしなんて、本当に毎回毎回自分を罵りたくなるくらいにできてないですもの。みなさんと同じです。それを少しずつ、少しずつ、気づいたところから日常を変えていく…ということをしているのです。だから一瞬で何かが変わるとか、美しくなるとか、そんなインスタントなものとは全く違うのですね。でも、気づいて取り組めが一生もののこと。

 

そして、前出の「国家の品格」で書かれているような美的情緒というものを読んだ時に、ああ、やはり全てにおいて「美しさ」が大切なのだ…と深く思ったのですよ。それが世の中の真理であり、揺るがない1つの軸なのです。

 

これをベースにその上に様々なことがそれぞれの講師の先生から伝えれていく、という多角的、多次元的なカリキュラムになっていますね。それぞれだけ聞くと、なぜこの授業?と思われるようなものが、ああ、だからなのか…というように深く理解できるようになる。1つの教えられたことが別の角度の違う授業を受けることで、そういうことか…とより深く理解していくようになる。そんな構成になっているのです。それが考えて考えて作るというよりは、偶然に出来上がっているのが酒井先生のすごいところではないかとわたくしは密かに思っているのですがね…。

 

次回は各先生から伝えられる他では聞けない授業について、わたくし視点でお伝えしてみましょうね。

SUTEMATSUカレッジの詳細についてはこちら
https://resast.jp/page/event_series/16519

誰に勧めたいかの問いに驚きの答え

我が家の地域貢献?

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


PAGE TOP