「天皇の料理番」を
一気に見たんですよ。
何をやっても長続きしない、
ダメ男と思われていた主人公が
料理だけは面白い、と思い
いろんなことが起こる中、
自分のやりたい、を貫いて
天皇陛下の料理番となっていく
大人気だったドラマです。
今までに3回ドラマ化された
ことがあるようで、
1980年代は主演が堺正章(巨匠ですな)
この時のキャストがまた
見事でトシ子が檀ふみ、
宇佐美さん財津一郎、そして
辰吉 を演じた明石家さんまが
東京に進出するきっかけと
なったそうです。
…というのはいいのですが…
TVのない私は噂は聞いてましたが佐藤健を見たことなくて
佐藤健が後半、唐沢寿明に
見えてしまったのは私だけ?
これをぶっ続けで見ていたので
飛行機では一睡もせずに
済んだのですが…
途中途中にありえないことや
うまく行きかけていたのに
追い出されるような
ことになったりするのですが…
こうしてドラマとして
外側から客観的に見ていると
これがあったから
小さくまとまることなく
さらに今までの枠の外で
生きるためのきっかけに
なっていたのだな…と
思いながらみてました。
人生の中では必ず
そういうことがあります。
何故、こんな苦しいことが
起こるのだろう?
何故、こんな目にあわされるのだろう?
何故、わかってもらえない?
何故、人は去っていく?
何故、うまくいかない?
が、それらは全て
後になってみれば
その時の自分には甚だ
想像することもできない、
もっともっと大いなるものへと
運ばれるための
脱皮の痛みだったということ
それが後にならないと
わからない
痛みもそうですが
今、やっていることもそう
こんなことをやって意味があるのだろうか…
そう思いながら
今やっている仕事を思うかも
しれませんが…
必ず、それが意味を持つことが
未来のどこかで待っているのです。
それを先に損得で考えたり、
意味がわからない、と
放棄してしまったりすると
その未来で得れれるはずの
宝石のような実とは出会えない。
こんなことをしても意味がない
儲からない
仕事にならない
と、自分がやりたいと
本当は思っていることを
見ないようにしていることは
ありませんか?
奇しくも、昨日のブログで
紹介しましたが、
スティーブ・ジョブズの
スピーチの中でもそのことを
話されていますが
大学を中退した後に
興味を持ったカリグラフィを
学んだおかげで
のちにMacを作ったときに
美しいフォントや文字間隔を
表現できる素晴らしいものを
作り出すことができ、
それが世界を魅了していったのです。
中退して、時間だけあって
興味があったカリグラフィーが
そんなことにつながると、
その時に誰が思ったでしょうか。
当の本人だって
全くそんなことは思っているはずもなく…
考えてもみてください。
ジョブズのような人でさえ
何のためにかわからないことが
私たちにわかるかしら?
これが未来に何の役に立つのかを?
だから、そんなことを
思いながら、これは意味があるか?
これは学んで得か?
これはお金になるのか?などと
考えてやるほどに
望んでいるものとは
かけ離れてたものになっていく。
大事なことは
今、目の前にあるものを
一体、どれだけ純粋に
楽しめていますか?ということです
そして、未来に置いて
ああ、このためだったのだ、と
腑に落ちる瞬間は
わかりやすくもないし、
隠された箱の中に入っている、と
申し上げておきましょう。
つまり、箱を開けるという
自分の行動なくして、
ああ、このために…という
過去の経験が箱をあけるキーには
ならない。
いくつもの扉が開いた先にある
魔法の箱をあけるには
自分の過去の中にある
経験を使うこと…
だけれども、それがキーだとは
その時は気がつきもしてないかも
しれません。
開いてしばらくたって
あれが活かされたのだと
思うかもしれません。
宝は剥いたフルーツのように
お行儀よく、切って
お皿に並べてあるわけではない。
毎瞬、この時間を
目の前のことを
精一杯楽しむこと、
これが全てをうまく流れにのせ
点と点を繋げていく
ことになるのかな、と
思っています。
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