裏方の目線でお伝えしている
このシリーズです…
酒井先生がお書きになった
こちらの記事にありますように…
実はこの名前を持ち出したのは
私だったのです。
大山捨松(おおやますてまつ)
この人の名前は幕末オタク、会津贔屓の
私にとっては既に何年も前から
知っている名前ではありました。
捨松はもともとは「さき」という名前
だったのですが、
酒井先生もおっしゃっているように
なんでこんなダサい名前になったのか、
といいますと…
満11歳でアメリカに留学することに
なったときに母に言われて改名したのです。
一度「捨てた」と思って送り出そう、
でもお前の帰国を「待って」いるよという
想いからつけられた名前、
それが「捨松」でした。
捨松は会津藩は家老の山川家の
生まれです。
お兄様の山川大蔵、のちの山川浩は
早くに家督を継いで若いリーダーとして
戊辰戦争でも活躍。
会津軍が鶴ヶ城に篭城を決めて、
立てこもった時に、周囲を取り巻く
薩長軍に阻まれて
お城へ帰ることができませんでした。
その時に機転を効かせて
会津の獅子舞のふりをして
鉄砲を構える薩長軍の前を
堂々と抜け、見事入城を果たした、
という逸話があります。
もちろん、薩摩軍もバカではないので
わかっていたのですが
そうした粋なやり方に敬意を示し、
発砲はしなかった、と言われています。
ちなみに私、この山川浩の大ファン。
こんな頭が良くて度胸が在る人、
本当素敵!と思っていました。
そんな山川浩を育ての父(父は早くに亡くなった)に
もつ捨松もこの篭城のときに
けが人を介抱したり、大けがを負いながら
爆弾の処理をしたりするのです。
この時に鶴ヶ城を攻撃していて
爆弾を打ち込んだのが、後に
捨松の夫となる、大山巌なのです。
ですから、
この二人の結婚というものが
当時、どれだけの反対があったか
それだけでも想像がつくというものです。
ただでさえ、
一方は家老の娘、一方は偉くなったとは
いえども下級武士上がりです。
最初は山川家、大反対だったようです。
しかも大山巌は奥さんに先立たれ
三人の娘がいる身
当時、大山巌41歳、捨松23歳
それでも諦めなかった大山巌を
捨松はデートに誘うのです。
当時、お国なまりがありすぎの
状態でしょ?
今でも薩摩弁と東北弁、
やっぱり、ちょっとわからないでしょー。
何を言っているのか
お互いに理解できなかったところ、
捨松は英語で話しかけるのですよ。
大山巌もヨーロッパに留学経験が
あるので、会話が弾み、
お互いの日本人離れした感覚が
二人の仲を決めたのでしょうかね。
まあ、こうして出逢いの史実を
紐解いただけでも
この捨松という人が
あらゆるその当時のタブーや
誰もやってないことを越えて
様々なことに取り組み、
新しい価値観を作っていったかが
わかると思います。
でも、そこには捨松の目指す
未来の姿があったからこそ…
…
…
…
実は私、ある捨松について
詳しく書かれている文章を
この酒井先生とのミーティングの
数週間前に読んでいたのです…
知っていたことと
知らないことを含めて、なんとなく
心に残っていた、というか…
本当にね、
突然、口をついて出てきたのですよ、
この名前が…
言わされたとしか
思えないのですよね…
別にこの学校の名前として…と
申し上げたのではなかったのですが…
だって、最初は
美人大学だの、
姫カレッジ、ですよ??
どう思います?(苦笑)
いや、私の中の何かが
「違う、違う、違ーう!」
って叫んでましたもん。
私、この時点では
今のような内容になることも
そのような意識を先生がお持ちに
なっていることも
知りませんでしたから。
でも、何故か
捨松のことを話しているうちに
「この人がきっとモデルになると思う」
と言っている自分がいたのです。
…
…
…
余談ですが、
私の血縁の中に戊辰戦争のときに
函館の五稜郭で命を落とした人が
いるのだそうです。
(確認はしてませんが)
函館は土方歳三の最後の地
ですから、
もちろん、何度も足を運んでおります。
五稜郭もまいりました。
こちらは土方歳三です。
なんだか色々なご縁が繋がって
色んな偶然が重なって
このカレッジが進んでいっているのを
感じています。
なんだか、こんな人たちにも
応援してもらっているように
感じますよ。
どんどん、周りにいる人たちが
御申込をしてくださり
嬉しく思っております…!!
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