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母との想い出その1

Vol1.母と私の関係性


2月19日の夜、私の母が逝きました。

クリスマスの日に吐血し、
緊急搬送されて、
すぐに戻ってくると思いきや

炎症値がありえないくらいに
高くて調べた結果、
左足の人工関節に膿が溜まっていて
そこからずっと入院。

手術を繰り返し、
膿を洗浄し、壊死した皮膚の移植を
したりしてましたが
どんどん食べれなくなっていき
弱ってしまったんですね。

 

567で面会もできず、
ダメもとで行った手術日の時と
足を切断するかも…という
先生からのお話の時に会って
顔を見ることはできたのだけど…
本当、あれが最後だったのか…と
思うと残念で仕方ありません。

 

実家にはあまり帰ることがなくて
昨年もあってなかったのだけれど
去年の10月あたりから
時間とって会いに行かないと…
という直感が何度も来ていて。

 

11月のある日、強烈に絶対に
今日行かないとダメだって思い、
時間を作って母に会いに行ったの。

今は実家を離れて妹と住んでいる母。

 

その時にね、
母が作ったご飯を久しぶりに食べて
母が私が生まれた時に
つけてくれていた育児日記を
何冊か持って帰ってきたんだ。

何故か、最後な気がして…
母をハグして別れたんだけど。
そんな気分になる自分も嫌だなと
思ったのを覚えている。
(何で最後なんだよ?って)

 

帰ってきてね、
母の日記を読んで号泣したよ。
(その話はまた今度…)

私は3人姉妹の長女として生まれ
3年ずつ開いた妹たちがいます。

子供のころ、
妹たちは「あっちゃん」
「はるちゃん」と呼ばれて
優しくしてもらっているけど
私は「ゆう子」と呼ばれていて

子供心にもわかるくらいに
妹たちと比べて冷たく
扱われていたように思うの。

同じことをしても
私はめっちゃ怒られるけど
妹たちは怒られない。

同じことをしても
妹たちは褒められるけど
私は褒められない。

 

私は母から褒められた記憶が
殆どありませんでした。

子供のころの母との記憶って
実はあんまりなくて…

 

悲しかったから忘れてしまった
のかもしれません。
何をしたら妹たちのように
優しい声をかけてもらえるのか
さっぱりわからなかったから。

最近になって
妹たちから言われたことが
ありました。

 

「お姉さんはお父さんに
似ているから、
お父さんが可愛がるから
嫉妬していたんじゃない?」

ってね。

子供の時、はっきり覚えている
情景があります。

何か言い合いをして
拗ねて外に飛び出して
1人でいたのですね。

私はよく神社やお寺の裏山で
1人でいることが多い子でした。
運動音痴でインドア派の私は
皆んなの遊びに入れてーって
行くことができなかったし。

よく、1人で色々なことを
考えていたと思います。

 

門戸厄神の裏山で
(今はお堂が建っているけど)
岩の上で寝転んで流れる雲を
眺めていたら、お寺の人に
こっぴどく怒られたことがあったわ。

そんな感じでひとしきり
1人で悶々として家に帰ってきたら

 

玄関の外にね、
私の赤いスリッパが
放り出されるように
捨ててあったんです。

 

赤いスリッパが

私の赤いスリッパが

捨ててある…

 

それはもう、
心が張り裂けそうな感じの
悲しみが襲ってきました。

その後、どうしたんだったかな。

スリッパを拾って
胸に抱えて、玄関のドアの前で
泣き続けていました。

 

それから、あんまり母と仲良く
というか話することが
なかったのですよ。

中学も部活終わった後は塾、
あんまり顔合わせず、
話もしなかったなぁ。

高校は寮に入ったので
それでも、親の有り難さ、
色々やってもらっていることに
感謝ができるようになって
少し態度が良くなったのでしょうね。

それ以来、うちでは学生の時に
家の外に出す、というのが
恒例になったくらいです。

 

大学、会社入ってからと
家にいる時間は殆どなくて
母と会話することは
殆どなかったのですわ。

元々がそんな関係だったところに
もってきて、
私が離婚した後とかは
さらに関係は冷たくてね。

出戻った娘とかが恥ずかしかった
のかもしれないけれども
まあ、色々あったのだよね。

 

母も片付けられない人でね、
私も片付けられないのは

母譲りかしらと思うのですが
ある時、実家に帰った時に
母も留守だったのですが
私でさえもその状態を見かねて、
片付けと掃除をしたのですよ。

そうしましたらね、
帰ってきた母が言ったのは
「ありがとう」ではなくて

「余計なことをするな!」と
逆ギレされましてね。

大雨の中、泣きながら傘もささず自分の
家に帰ったことがありました。

その日から5年くらい
殆ど実家に帰らず、
泊まりに帰るのは大晦日の夜、
1日くらいという時期がありました。

そんな状態だったので
親に心から感謝する、なんて
気持ちになれなかったのですよ。

それが、こちらの記事にも書いたけれど
何が起こったのかわからないのですが

 

白い光とともに感謝の念が
溢れ出てきて、
それまでのこととか
わだかまりに思っていたこととか
霧散してしまって
ありがたいな、という気持ちに
変わったのでした。

それが理由なく移行したものだから
自分としては昔からこの気分
だったような心持ちでね。

今、これを書くにあたって
昔を思い出して悲しい気持ちを
思い出したりはするのだけれど

それはフィルムを見ているような
感覚なんですよ。

それからあとは
多分、母の反応は変わってないと
思うのだけれど

それに対する私の解釈が
「私は愛されてない」

「私は大切にされない」

みたいには思わないで

 

ああ、こんな表現しかできないんだな

本当は寂しい、って言ってるのか
とか

やれやれ、こういうところを
変えたらいいのにね…とか

そこに反応しなくなったというか

母の言葉や態度から
「愛されない自分」を自ら作るのを
やめたというか

そういうゲームを終わらせたように
感じています。

そう、全部自分が創っていたんだよね。

その言葉や態度にどういう
解釈を与えるか、

 

自分が不幸になって悲しくなって
自分の価値を下げるような
解釈を選ばなくてよくって。

 

そういうように
考えることができるように
なっていたんだよね。

だから、ここ20年くらいは
時々は「まったく!はぁ…」と思うことも
あったけれども
穏やかな関係だった。

 

自分の不幸がこんなふうに
育てられたからだ、と
恨んだこともあったけれども

そもそもが自分がそう思いたくて
誰かのせいにして
何も変わらない、
自分では変えられないものだとして

変わることを拒んでいたと
今はよくわかります。

そういうことを見せてくれていた
関係だったのかな、と思ったり。

 

 

今は火葬場も大変に混んでいて
待ちがかなりあるようです。

横浜市もこの半年、かなり
亡くなる方が増えていると
担当の方も仰ってました。

25日に娘たちだけでお葬式と
なりました。

それでも死因が567ではないので
立ち会うことができて良かった。

それまでの数日…
母とのことを思い出しながら
綴ってみたいとおもいます。

 

お付き合いください。

 

地球人タイプも生き苦しい

母との想い出その2

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