Vol2.母という人は
私の母という人は
いわゆる、地球人タイプの典型みたいな
感じの人でした。
私はほら、宇宙人タイプでしょ?
理解できないところもあったと
思うのですよ。
多分、父も宇宙人タイプなのよね。
母は私とは違って、
一つのことを決めるととことん
やり抜くタイプの人でして
徹底的にやるのは素晴らしいなと
思っていましたよ。
だから
すぐに飽きて他のことを始める
私はずっと自分にダメ出しを
してきたのですがね。
母はどちらかというと、
ではなくて完璧にKY、空気読めない
人間でしたね。
だから、言いにくいことも
ズバズバ言ってしまう。
そこは似ているのでしょうね(苦笑)
そんな母はよくPTAの役員とかを
させられていたように思います。
黙っていられない性分というの?
誰もやらないならやるわよ、的な
ところがあったのだと思います。
正しいと思ったことを貫く
勇気と信念と潔さをもって
いた人だと思います。
中学校の時だったか、
多分、先生のおかしな行動に対し、
それはおかしいだろ?ということを
引かずに問うていた母。
ほら、内申に響くから
そういうことを言う親とか
やっぱり少なかったんだわ。
子供のために言いたいことを
言わないでいる…とかいう
そんな人が多い中、母はガンガン
言っていたと思う。
そんな母を私は誇りに思っていたし、
それで内申が悪くなったところで
受験に影響があることを考えるより
黙っていられる方が私も嫌だったしね。
私の少し前まであった
「こうでなくてはならない」という
正しさを追求したり、
白黒はっきりさせるような質は
母とそして父からも色濃く
受け継いでいたと思うのです。
VOL1で書いたように
私は母にあまり褒められたことが
記憶にないのですけれども
褒めるのが下手な人だったなぁ。
子供の目から見ても
可愛げがないと言うのか
良いところを認めると言うより
ダメなところを指摘する、という
もうね、
人を凹ませる天才だと思っていたわ(苦笑)
だから近づかないように
していたんですよね、ずっと。
話していると凹んじゃうから。
でもね、恐ろしいことに
私自身もおんなじで、褒めることが
本当に下手で、今はまだマシに
なったけれども
昔はひどかったですよ、私。
自分の辞書の中に褒め言葉と
いうものが殆どなかったから、
褒められない(苦笑)
昔は漫画やドラマや本をみて
褒め言葉をノートに書き出して
自分の辞書を広げていたわ。
女性として大切なのは
本当にこの部分だわ、と反面教師として
1番学んだのでした。
素直に自分の気持ちを
表現できなかったんだろうな、母は…
そして、私もずっとそうでした…
母は口に出しての言葉は
辛辣で優しい言葉があまりない人
だったのですが…
綴る文章はユーモアがあり、
面白く、愛情溢れていると
子供心にも思っていたものでした。
そんな母が残してくれた
私の育児日記の一節です。
泣き出すとグイグイ上へのり出してしまうから頭のうしろのただでも薄い髪がチリチリ土人のようになってすり切れてしまっている。
もうベビー服の袖が短くなって手が出てくるのを見て、おばあちゃんは袖の袋を作ってボクシングのグローブのようにはめるといいと言うが、何だか気狂い患者のようで私はいやだ。午前中私が洗濯をしている間、ゆう子はラジオを聞きながらうつらうつら1番良い気持ちの時間である。時々オーッと呼ぶように叫ぶけれど、ゆう子、ゆう子と声をかけてやると又眠ってしまう。ゆう子がはっきりと物を見るようになったらあれもしてやろう、こうもしてやろうと1人考えては楽しんでいる私である。
(1964.2.21の日記から)
奇しくも、58年前の今日…
(今、日付を見てびっくりした)
この日記は若かれし母の愛情で
溢れていた。
まだ若い20代の母と父が
私のことをどれだけ愛して
毎日、向き合ってくれていたか
綴られていた。
それをね、昨年最後に母と
会って母の作ったご飯を食べて
これを引き取って帰ってきた日
読んで号泣したのでした。
昔、気づけなかったその愛情が
確かにそこにあったことを
感じて、声をあげて泣いたのでした。
過去には色んなことがあって
本当に顔も見たくないって
思っていた時期もあったけれども
その不器用さも
素直じゃないところも
可愛げのないところも
空気読めないところも
ユーモラスなところも
文章うまいところも
絵が上手だったところも
信念曲げないところも
大好きだったよ、お母さん
お母さん、ただただありがとう。
産んでくれてありがとう。
魂の故郷に戻って
また、会う日まで私たちのことを
見ていてね。
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