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知覧にて

鹿児島空港に降り立つのは2回目。今回は知覧での鎮魂の儀に参加したいと思い立ったからだ。

沖縄での鎮魂はとても長い時間をかけて、この国に命をかけてくださった英霊さんたちの御霊を祀るということをさけて頂くことに参加した。

知識として知ってはいたが、何十万もの人たちが本土決戦をさせないために闘ってくださっている。といういと、その上に今という時間があることをつい忘れてしまうのだけども。

 

沖縄の鎮魂に参加したとき、そのことがリアルに感じられたのです。各都道府県の慰霊碑がそこそこ広い敷地に設置されていて、そこを全て回るだけで3時間近くかかったです。最初に回ったところが、たまたま住んだことがあったり、リアルにご縁があるとかが続いたから、その思いはひとしおでした。

5月に知覧の鎮魂があるのは知ってましたが、そこだけ独立してやると知って、それなら行けるかもと朝行って翌朝帰る弾丸で行って参りました。

 

前日、私には珍しくお腹が下痢気味で、だけど痛くも気持ち悪くもないので気にしてませんでしたが、30回くらいトイレ行きましたよね?このままでは飛行機に乗れないのでは?といかん!明日には治っている設定して寝ました。

 

翌朝、何とか出発。大雨の鹿児島空港では引き返すかものアナウンスもあり、結果的には一瞬雲が切れて無事着陸。仲間が迎えに来てくれて、知覧へと向かいます。

 

知覧は若い17歳〜20代の若者が特攻隊として飛び立った場所。飛び立つ前夜はみんなに酒が振舞われ、遺書を書いたという三角小屋なるものが再現されていました。敵にわからぬように杉林の中に半分地下にし、屋根の上には杉の葉で覆い作られていたそうです。

 

終戦後、部下を率いて飛び立った隊もいた中で生き残りできる事をすることを選んだ菅原道大中将の存在も大きいです。当日は生き残ってしまったことが恥であるようや風潮であったから、どれほど辛かったことか…。


知覧護国神社

知覧での鎮魂は割とすぐに終わりました。やはり統制のとれている兵隊さんを祀られているところは早いのかもしれません。

しかし、この後の鎮魂で向かった谷山護国神社では思いの外、長い時間がかかったのでした。感じたのは大東亜戦争だけではなく、その前からも続く維新やその前の時代の想い。そんなものも含めて浄化してる感覚。


谷山護国神社

 

そして、ふと湧き立つように溢れてきた思い。それは前日に見ていた夢にも通ずるものでした。夢の詳細は覚えてないのですが、そんなこともあんなこともあの出来事の中には組み込まれていたのですね、ということ。それを頷きながら、受け取っていたのですが。

 

ふと、10年前に宇宙物理学者の先生からお聞きしたお話しが蘇りました。日本の女性は素晴らしく、1000年前に天皇の教育係は女性で字も読めて、かけて、物語すら創作していた。そんなことは西洋ではなくて、その時代の女性の教養はそこまでなかった。レディファーストというのは自分たちが優位だと思っている男性目線の振る舞い。

日本の女性は例えば、戦争があった時、千人針とかするでしょ?何としてもご主人と子供を守るという祈りの力を発動させ、守ってもらうだけの存在ではない。片や西洋の女性は戦争などがあれば、私たちを守って、と男を戦地へ送り出す。そう、海外生活が長く、西洋の方々の考え方を十二分にご存知の先生の言葉だったから重みを持って入ってきたのを思い出す。

 

その先生は1980年代に既に「これからの時代は縄文時代が参考になる」とそうした著書も書かれていらした。

 

日本の女性は大らかに男も子供も包み込んだ。その本質を今こそ目覚めさせ、この世界を変えていくことが必要なのだ。

 

そんな想いを今回の知覧の鎮魂にて受け取ったのだった。

女性たちが自分に自信を持ち、大らかで豊かな感性の元に「絶対の安定・安心」を持ってくれていたら、子供も男たちも自分を生きれるよね。

神計カムハカリ

おかしいと思うこと

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