こんにちは、林ゆう子です。
先日、メルマガにも書きましたが、FBでふと目に留まったある投稿。そこにはこんなことが書かれていました。
「自分が、自分で良かった」
と心からまだ思えてはいない、ということ。それを読んだ時に自分は?と問うてみて、あら?意外とそう思っているわ、と感じたのですよ。
わたくしは若い頃は自分が嫌いで、自分を変えたいと思ってきたのですが、なかなか変えることができずにいました。長年、自分のことを受け入れられずにいたのだと思います。
自分を取り戻す、自分に還るといったワークショップに参加してみたこともあります。でも何かがガラッと変わったのではなく、少しずつ、幾重にもなっているものが剥がれていくように自分の中心に戻ってきたようです。
若い頃だけでなく、つい最近まで心のどこかにそういうものを持っていました。一昨年の年末近くに思ったことがあったのです。今の自分の評価は周りの方々がわたくしに対してしているもので、それがなくなったら自分はどうなってしまうのだろう?という危うさを感じておりました。
だからでしょうね。
その周りからの評価が消えたとき、さあ、自分は自分をどう見るのだ?と突きつけられたように感じます。いや、これ本当。心の中で思ってましたもん。「あー、これ自分が望んだことだわ」と、ね。
人からの評価にしがみつくのではなく、自分は何者なのだと揺るがないものを持ちたい、と。
しかし、この作業は思っていたようなことではありませんでした。
「諦め」
そう、これが自分だと認めくないものに対して、一種の諦めにも似た感覚で「そうだわ、これが私なのだ(仕方がない…苦笑)」と受け入れる感じです。
そう、色んなことを諦めたのです。
人の世界観に合わせようとし、それに合わせられない自分はダメなんだ、まだまだなんだ、出来てないのだ…と久しぶりの自分ダメ出しをして落ちていたのですが、いや、それは自分ではないでしょ?と思うことがありました。
やっと、自分はそれを採用しない、と決めたのですよ。
何をどう言われても、これが今の自分なのだとある意味、開き直ったのですよね。
これと同じことが20年前にもありました。その時は格好悪い自分が自分だと認められずに反発したり、よく見せようとしたりしていたように思います。
しかし、「そうよ、その格好悪いのがわたしよ!」と白旗あげて降参した途端に自分は自分に対して過小評価も過大評価もしないで等身大の自分を見ることができるようになったという体験がございます。
そのことは、こちらの記事でも書きました。
「怒り」がきっかけで「諦め」がやったこと。
そんな感じでしょうか。
色んなことをそれが自分だから仕方がない、と思いますとその先の「ならどうする?」を考えることができるのですよね。
そのままでいいならできる人を探す、とかどうにかしたいなら改善するとか対応できるわけです。わたくしもここは自分の持ち味だから変えられない、というものともう少し意識してみよう、というものを無意識で分けてみておりました。
1番自分の中で受け入れたくない質
それがもしかすると自分が1番役立てることのできる質なのかもしれませんね。
無意識でそうやってしまう、なってしまうこと。
あなたが認めたくない自分の質はどんなところですか?
そんな話を昨晩主人と焼き鳥食べながらしておりましたら、主人は自分が大好き人間なので生まれた時からずっとそう思っているよ、と言われて、人というのは本当にみんな違うものなのだな、と思った次第です。
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