Loading

BLOG

茅野日記274:頑張るということ

今日は「頑張るということ」について
書いてみたいと思います。

 

私は「頑張る」ということには
2種類あると思っています。

ここでも
いつも言っている
起こりの気持ちはどこにある?
が大切になってきます。

 

足りない、
もっとやらないと…
という
足りない、という視点からの
頑張るという行動。

 

もう一つは
やりたいからやっている状態
集中であり、
没頭であり、
心の中に溢れているものが
形になろうとする頑張り。

 

2つの頑張り

やめた方がいい頑張りは、
根っこにこういう感覚がある。

このままの私は足りない。
もっとやらなければ認められない。
ちゃんとしないと価値がない。
結果を出さないと安心できない。

 

これは、行動しているように見えて、
実は「不安への反応」になっている。

 

脳や身体の視点で見ると、
緊張モードになっているよね。

 

失敗しないように。
怒られないように。
置いていかれないように。
見捨てられないように。

そういう内側の警報が鳴ったまま、
自分を動かしている状態。

 

だから、結果が出ても休まらない。
褒められても安心できない。
ひとつ終わっても、
すぐ次の不安が来る。

 

これは「努力」ではなく、
自分を追い立てる構造になってしまう。

 

 

私の考える本来の頑張り

一方で、好きなことに
夢中になっているときの
頑張りは違う。

 

料理をしていて、
もっと美味しくしたくなる。

文章を書いていて、
もっとぴったりくる言葉を
探したくなる。

人の本質が見えたとき、
それをどうにか美しく形にしたくなる。

そのとき、外から見れば
「すごく頑張っているね」
と言われるかもしれない。

本人もあとから、
「ああ、頑張ったな」
と思うかもしれない。

でも、その頑張りの中には、
自分を否定する匂いがない。

 

足りないからやるのではなく、
湧いてくるからやる。

 

認められたいからではなく、
形にしたいからやる。

 

不安を消すためではなく、
内側の生命力が動きたがっているからやる。

 

これは、頑張りというより、
集中であり、没頭であり、いのちの自然な発露。

違いは「力の出どころ」

だから、頑張ることの問題は、
量ではない。

どれだけ長くやったか。
どれだけ努力したか。
どれだけ成果を出したか。

そこではない。

見るべきは、
その力がどこから出ているか。

恐れから出ているのか。
歓びから出ているのか。

欠乏から出ているのか。
充足から出ているのか。

自己否定から出ているのか。
本質の衝動から出ているのか。

 

同じ行動でも、
出発点が違えば、
その行動が身体に残すものも、
現実に放つものも変わる。

 

欠乏の頑張りは、終わりがない

 

「足りない私」を前提にした頑張りは、
どれだけ積み上げても終わらない。

 

なぜなら、
行動の目的が「完成」ではなく、
「不安の一時停止」になっているから。

 

だから、成果が出ても、
また不安になる。

認められても、
また証明したくなる。

休むと罪悪感が出る。
人と比べて焦る。
もっとできる人を見て、
自分を責める。

これは、頑張りながら、
自分の存在を少しずつ削っていく。

 

本質からの頑張りは、満ちていく

一方で、本質からの頑張りは、
やればやるほど深まっていく。

もちろん疲れることはある。
身体は休息を必要とする。

でも、魂までは削られない。

 

むしろ、
「私はこれが好きなんだ」
「これをしていると私でいられる」
「もっと深く触れたい」
という感覚が残る。

そこには静かな充実がある。

結果より先に、
行為そのものが
自分を本来の位置へ戻してくれる。

だから、問いは「頑張るべきか」ではない

本当に大切なのは、
頑張るか、頑張らないかではない。

問いは、こう。

私は今、自分を足りないものとして扱っているのか。
それとも、自分の中にあるものを咲かせようとしているのか。

この問いを持つだけで、
頑張りの質が変わる。

前者なら、
いったん白旗を上げた方がいい。
「このままでは足りない」と
自分を責める戦いを終える。

後者なら、遠慮しなくていい。
夢中になればいい。
没頭すればいい。

 

その頑張りは、
あなたを消耗させるものではなく、
あなたを咲かせる力だから。

(184/100)

茅野日記273:感謝をすると現実が変わる

茅野日記275:足りないの捉え方

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


PAGE TOP