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死に方を考える

昔、わたくしの先生にこんなことを言われたことがありました。「ゆう子さんは『いかに死ぬか』という本を書く」と。いかに死ぬかということはいかに生きるか、ということですよ、と言われたのです。もう15年くらい前ですが。

今、いかに最後を迎えるのか…ということを考えさせられることがございまして、そのために今、何ができるのだろう?と考えたり致します。

もし、病気になったりいたしましても、自分は延命措置とか全くやって欲しくないと思っております。本人がそう思っていても、最後まで望みを捨てたくないと、残される側が措置を願う場合もございますよね。

自分が自分の意思で何かが出来なくなった時に、点滴やら何やらをつけて生きながらえていたとしても、きっとそれはわたくしにとっては生きている、という状態ではありません。

でしたら、全ての延命のための治療はやめて、死ぬ瞬間までの時間を緩和ケアに移行し、充分に味わって、好きなことをして死にたいものです。

そうは言っても、人は余命を聞けば様々に思うことがありますでしょう。嘆く方もいらっしゃれば、自分の不幸?を何故?と思う方もいらっしゃるでしょう。

ですが、誰でも最後はあるのだ、ということ。

いつその日が来るかはわかりません。月並みな言葉ですが、そこに至るまでの今この時に意識を持って毎瞬自分の意思で選択し続けていくことが出来ていれば、そんなにジタバタすることはないのではないか…と考えたりしております。

残された寿命を思い、自分の不幸を呪う暇があったら、さっさと気持ちを切り替えて、この世の全てを味わい尽くしたら良いのです。

わたくしは余命を言い渡された時に、そんなように思いたい、そのように最後までを生きたいと思っております。ですから、中途半端な生き方や後悔が残るようなことはしたくございません。

他人がどう評価するかとか、どう思われるのとかいう他人目線を気にしての選択や起こってもいないことへの不安や心配をして動けないなどということを選択することは、しない、と決めております。

「生ききることは咲ききること」

わたくしはこれを自分の理念としてますが、これからもこの選択はそうした自分であるのかどうか?を常に意識していたいと思った最近でございます。

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