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変化の中で生きて行く方法

何かをお伝えすると
「正解はなにか」を聞こうとする方が
いらっしゃいます。

正解というか、正しいやり方?

どちらが正しいのですか?と聞かれましても
どちらも正しい、
でも、どちらも正しくない…

そういう世界が本当なのだ、と
わたくしは感じております。

 

答えは決まってはいない

長く、正解を答えることが正しい、と
教育されてきたのかもしれません。

正解をやらないと不安になるのかも
しれません。

しかし、本当のところ
これが絶対に正解です、というようなものは
ないと考えております。

世の中の事象を見ているときに
「絶対」というものがあるでしょうか。

桜は確かに毎年春になると
咲きますが

この日に咲くとか
この条件になったら咲くとか
この順番で咲くとかはないでしょう?

「絶対」はないということは
「これが正しい」ということもない。

昨日はこれが良かったけれども
今日は違う。

この前はこれでうまくいったが
今日はそれではうまくいかない。

正義と思っているものも
反対から見えば、不正、反逆、悪…

 

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そんなことが普通なのだと思っています。

そして、この変わっていく
スピードがここのところ、
早くなってきていると感じます。

ではわたくしたちは何を指針に
物事の良し悪し、
やるやらない、
選択をしていけばいいのでしょうか。

選択の指針になっていくもの

わたくしはその答えは
自分自身の中にあると考えます。

よく思うのです。

幕末の時代、鎖国だ、開国だ、
天王攘夷だ、佐幕だ、
様々な思想がありました。

自分がどの藩に所属するかで
藩の方針はあったでしょうが
いい、悪いではなかったのです。

それは自分がどこを信じ、
どうしたいのか、だった…

もっともあの時代は藩と意見を
違えることは罪であり、
脱藩は重罪であったわけですよね。

しかし、脱藩しても
自分の信じることを貫いた
人たちもいたのです。

ああした流れの中、
何かが正義とかではなくて
自分は何を信じるのか、
そしてそのためにどう行動するのか、
が生きるときの指針になると考えます。

いま、時代が変わろうとしている
この時にも、まさにそこが問われて
いくだろうと考えています。

誰かの言うことを聞いて
うまくいかなかったらその誰かのせい

誰かが言ったから

ここに書いてあったから

Google調べたらそう出ていたから…

そんなことが言って
あくまでも人の作った価値観で
生きる人たちと

それらを一つの情報と捉え
自分は何を選んでいくのか、を
考えて、自分の意図に合わせて
生き方を選んでいく人たちとに
別れていくでしょう。

つまり、
自分の価値観

が判断の基準になってきます。

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そう、自分の価値観で選択するということは
その選択によって起こることの
責任は自分にある、というスタンスです。

これがなければ
自分で選んで人生を創る、
ということは片手落ち。

起こることの責任は全部自分のもの。

これがあって初めて
人生は自分の手に戻ります。

そして、自分の価値観を作っていくために
自分は何を感じ、どう思っているのか
そこが大切になってきます。

このために必要なものが「感性」です。

ただ起きているものを受け入れる余裕

この「感性」というものが
物事に対して、
自分は何を受け入れ、何を受け入れないのか
やるのか、やらないのか、
これを決めていくための
情報のキャッチ能力です。

それを様々なものを感じ、
そこから自分はどうするのかを考え、
選択し、失敗したり、
うまくいったりの中から
自分が大事にしていく価値観が
形成されていきます。

しかし、この感性が鈍いと受け取れるものが
限られてきます。

最初に書きました
「何が正解なのか?」というような
そういう感性でいますと

自分では答えを導きだせない、
というようになってまいります。

怖くても不安でも
自分で答えを出し、責任を取る、
ということをやっていかないと
いつまで経ってもこの感性は枠の中。

そして…

絶対はない、し
今の自分の頭では理解できないこと、
見えない不思議も沢山あります。

全てに「何故?」という証拠を求めないこと

これが大切な姿勢だと思っています。

理由はわからないけれど、
違うと感じる。

何故かはわからないけれど
こちらがいいと思っている。

そうした「感じたこと」を大事にする力。

だから、画一的に「これが正しい」に
慣れていますと
このファジーさというか
ゆらぎ、というか

この場合はAだけれど、
こちらの場合はBだわよね、という
そうした感性が発動しないのです。

それは一種の余裕というのでしょうか。

全てがわからなくてもいい、
納得しなくてもまるっと受け入れる。
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そんな姿勢が大切になっているのです。

これらは今まで、証拠だとか確証だとか
論理だとかを求められてきた
世界では蓋をされてきた感覚です。

これを取り戻していく作業が
大切になってきます。

…と書きますと、「何かをしなくては!」と
すぐに特別なことを
しないとならないと思いたがる。

違います。

あなたが一番疎かにしてきた
日常の当たり前のことを
丁寧にやってみる、ということ。

そして、それを今までのやり方を
していた時とどう違うのか
自分で感じてみる、ということを
するのです。

特別なことをする時間がないから
自分は感性が磨けない、
ではないということ。

空を見て、太陽を見て、
何を感じますか?
昨日との違いがわかりますか?

周りの人を見て、話して
何か感じることがありませんか?

行き帰りの通勤の途中で
見る景色、出会う人々の中に
感じることはありませんか?

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感じすぎるから、蓋をしている

というような言い方も
よく聞きますが、
見ないようにしていて
何か良いことがあるのでしょうか。

働けなくなる?

いいえ、いいえ…

感性で捉えたものを
どういう前提で見るのかは自分次第。

その前提によって感情は作られる。
だから、自分がどういう気分になるのか、
ということを含めて自分責任なのです。

人や何かがあなたの気分を
悪くしているのではない。

そして、この感情の選択を含めて
「感性を磨く」ということ。

これができなければ
自分の価値観でものを選ぶ、
ということは
なかなか実現しないのです。

ただ、感性を高めばいいのではない。

受け取ったものを
どう捉え、どう感じるか(感情です)
これも選択できる、ということを
意識していくということです。

あなたの感性は生きていますか?

様々なものを捉えていますか?

余裕を持って世の中を見ていますか?

見えたもの、捉えたことを
選択する自分でいますか?

そんなことが大切になってきています。

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