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父についての回想2

先月2/28に逝った父について、今の自分の気持ちを書きとめておくために書いております。言葉にならない想い、考え、もっと熟成させたいことが山のようにございますが、直後の自分はどうであったのか…という備忘録のために…

父と祖父母


(父が最後の病院に転院した2/8の夕焼け)

米原へ帰ってきましてね、主人の母が3年くらい前に父がTVに出た時の番組を録画していてくれたのを見せてくれました。TVもない、DVD見れないわたくしは実は父が出演した番組を見てなかったのですね。

海軍指揮官だった祖父、教育熱心だった祖母の写真とともに学生時代の思い出などを父が語っておりました。それによると父は高校生の頃、ずいぶん悪さをしていて祖母を泣かせていたようです。ある時、いたずらをして人様にご迷惑をおかけするような事件があったそうです。そんな時、祖母が父を映画に誘って観に行ったのだそうです。その時の映画が「ローマの休日」だったそうです。その映画を観終わり、新宿の中村屋のカレーを食べながら、祖母が言ったのだそうです。

 

「お前は上等な男になりたいのか?」と。「上等な男になりたいなら、人様にご迷惑をかけているようではなれないよ」と懇々と言われたのだそうです。ローマの休日を見るとその日のことが思い出されるとTVの中で語っていた父ですが、病室でもDVDが観れるようになり、最初に観たいと言ったのは「ローマの休日」でした。「ローマの休日」はわたくしも大好きな映画の1つです。
確か最初に観たのは高校生のときに寮生全員、体育館に集まって観たように思います。オードリー・ヘップバーンの透明な美しさと品のよさに釘付けになりました。

わたくしにとっては「おばあちゃん」が父の母親としてどんなことを言って、どんなことをしていたのか…を知り、不思議な気分でした。父は明星中学から慶応志木高へと進んだのですが、それが全て祖母の意見だったとは…。父の人生を観ていても慶応であったことがどれだけ大きく影響しているか、それは子ども心にも感じておりましたから。(なんせ子供の頃は六大学の応援歌全部歌えてましたから)
そのきっかけを作ったのが祖母だったのだ、と知ったこと。

 

そして、海軍で砲撃の指導をしていた祖父は時間と約束に厳しく、それはそれは厳しくしつけられたと父が語っておりました。そういう父も時間と約束にはとても厳しく、祖父が「できない約束はするんでない」と口をすっぱくして父に言っていたとおりに、父も同じでございました。
時間に厳しく、約束に厳しく…。メールなどもすぐに返事をしませんと、烈火のごとく怒られたものです。いまだ、返信が遅いわたくしは何度怒られたことか…。

「約束」ということに対して、物凄く真摯な人であったのだと思います。

父をよく知る方から、父に対する周りの評価をお聞きしたのですが父に頼めばなんとかなる、やるといったら必ずやってくれる、ということでしたから、一貫してできないことはできない。しかし、一度やると言ったからには必ずそれを守る、ということをしていた人だったのだということを感じ、とても誇らしく思うとともに、自分も今一度、そうしたことを大切にしようと心に誓いました。

ダンドリをして…

父は当時では珍しく、3社の会社を転職した人間です。証券、外資系会社、日本大手企業と変わり、わたくしの年には最後の大手企業で役員になっておりました。会社を辞めたあともあちこちの会社の顧問を引き受け、コンサルをし、大学で教え、またセミナーなどで話をしておりました。

 

ですから、小学生の時も父の休みは日曜だけ、それ以降の時代はほぼ顔を見ることもあまりないような生活でしたよね。そんな活動的な父ですので、その人付き合いも幅が広く、今回、父が亡くなったことは葬儀後3日後まで内緒にされました。父の会社関係に務める妹などは葬儀も忌引きではなく、有給を使って休んだほどでした。知られると大事になるだろう、ということで全部自分でダンドリをつけていましたから。

葬儀の後に誰に連絡するのか、事細かくリストまで作成してあってそういう意味ではとても助かったのですが、その厳選された方々に直接お電話で葬儀3日後に連絡をさせて頂きましたら、みなさま本当に気落ちされていらっしゃり、父が本当にみなさまに愛されていたのだ…ということをまざまざと感じました。

 

父は年末に倒れてから一度も家に帰れず、最後に身辺整理をするために帰ってきた時は全員集合で荷物整理を手伝いました。整理のできない、わたくしとは大違いでその整然としたファイルは圧巻でしたね。どこになにがあるのか一目でわかる。そして、その一時帰宅の際に自分のお棺の中に入れてあちらへ持っていくものも全部自分で吟味しておりました。

その中に母が結婚前に父にプレゼントしたというネクタイが含まれていました。後から母に言いましたら、母はさっぱり忘れておりましたけれどもね。その中には志木高時代の学制帽、慶応のフラッグ、会社のフラッグなども入っておりました。


(母が結婚前に父に贈ったネクタイ)

もちろん、死出の装束というのですか、そちらも自分でお気に入りのスーツを選んでおりました。ワイシャツからネクタイから…。ガンという病気はあながち悪いばかりでもない、こうした準備の期間を与えてくれているから…と父が話しておりました。でも、切ないですよ。父と一緒にお棺にいれる品物を吟味するのは…。みんな、でも笑いながらやっておりましたけれどもね。
こうした場面こそ、深刻になってはいけないですよね。どこかしらユーモアを持っておりませんとね。
…ということを改めて思ったのです。

 

そして、レポート用紙8枚に渡るダンドリ指示書が渡され、わたくしどもはそれにのっとって父の意思を尊重した形で葬儀、及び諸々のことを手配していったのでございました。
そういう意味では本当にエンディングノートなどは書かれておいたほうがいいですよ。うちもあまりに整理されてないから困るでしょうねー。今月中にそうしたものも見直しをしないとなりませんね。

しかし、自分の死ぬ日も含めて父は本当に全部ダンドリをつけて逝ったのだと思います。人生は自分の選択で作られる、ということを最後まで見せてもらいました。

 

この世における自分の創造主たる親が亡くなると、自分が再構築されるような気がする、と友人が言っておりましたが、本当にそういう感覚でございます。自分の中のアイデンティティーがもう一度問われ、お前は何者なのだ、ということを考えさせられているように思います。無意識の中で父に守られているという感覚があったのだな…というように感じております。そうしたものが無くなって、そして自分はどうするのか、どこへ向かうのか…そうしたことをゆっくり、時間をかけて見ていく時なのかもしれません。

 

書いておきたいことは沢山ございますが、まだまだ言葉にすることは叶わず…。病院に入りました時にまわりに沢山の桜の樹がございまして、今年は素敵なお花見ができそうね…と話していたのが寂しく感じます。今年の桜はちょっと切ない気持ちになりそうですね。

 

 

 

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