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自分の最後を段取る

仲間全員に電話で話し、最後の挨拶を終えた父。26日にお見舞いに行った時は元気だったのですよ。マダムも一緒でした。ですから、大丈夫だな…と当時、大阪にもサロンを持っていた私は大阪へと仕事に行ったのでした。

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どうやら、最後に父と話をしたのは真ん中の妹のようです。当時、会社に行っていた妹のところに父から電話があったそうです。真ん中の妹はマダムの話を聞いて激怒し、父と口をきかなくなる、という態度に出ていたのです。多分、それについて話したかったのではないかしら…と想像するのでした。

 

妹は何を話したのか、絶対に言わないのですけどね。もし、酷い言葉とか投げつけていたら、それはそれで妹の心に重く残ってしまっただろうな。

 

その翌日、看護師さんが朝起こしに行ったら、ベットで眠るように逝っていたそうです。

 

最初に連絡が来たのは私だったのですが、電話に気づかず1時間くらいあとに電話をして父が亡くなったことを知るのです。「え?亡くなった?」とちょっと呆然です。
もう急ぎ帰る必要もないので、ゆっくりと集合しようということになりました。

 

まず父は私がいない時を見計ったな、と思いましたよ。何故って、父の病院へは私が1番近く、もし、私が東京に居たら1番最初に駆けつけるのは私でしたから。そして事実は1番最初に駆けつけたのがマダム、となったのでした。

 

そこから色々な葬儀の手配をするのですが、父は自分が死んだ後のことをレポート用紙にギッチリと指示書を書いておりました。

最後までええカッコしぃ

父は病気のこと、余命のこと、入院していることなどを誰にも内緒にしていたのです。言えば毎日のように誰かがお見舞いに来てしまうので、マダムとの時間がなくなってしまいます。それを父は本当に1番に大事にしていたのです。

 

途中、何度か会社の方に顔を出さないとならない日がありました。その時はスーツをバシッと着込んで、自分で新百合ヶ丘の駅まで行き、そこに迎えの車を待たせていて、決して病院に迎えを来させることはありませんでした。

亡くなる前に何度かうちの主人と妹の旦那様が父を見舞いに行って話し相手になっていた時はグルメだった父に主人たちが美味しい店を聞きまくってましたっけ。中華でお勧めは…?鰻は?焼き鳥は?など、全国の美味しい店を楽しそうに話ていたのでした。

 

そんな時、父は決まって「ワインでも飲んでいけ」とワインセラーから美味しそうなワインを開けて主人たちにふるまってましたね。

 

亡くなる1週間前には一時帰宅ということですみれが丘の実家に帰ってきて、最後の整理と別れを済ませていました。父は母の作ったシンプルなチャーハンが大好きでした。会食でどんなに豪華な食材を使った炒飯を食べても、あのネギと卵だけのシンプルな炒飯がいいと言うのでした。そのチャーハンを食べて父は家を後にしたのでした。


(シンプルな母の炒飯)

葬式のダンドリまで

自分がなくなって葬儀が終わった3日後にこの人たちに連絡をしてくれ、とリストが作成されていました。それまでは会社にも誰にも言わないでくれ、という指示。

そして葬儀は家族葬で身内だけで送る要にという指示です。普通に葬儀をやったら収集がつかないことになっていたでしょうし、喪主だった私も偉いことになったと思います。
しかし、これはマダムのためなんだな、と判りました。

葬儀になった時、そこに立つのはマダムではなくて私たちや母ですから。

 

知った時にはもう葬儀は終わっている、という状態にしたかったのですね。ですが、手分けして連絡をした私たちは大変でしたよ。全員に「なんで連絡してくれなかったんだ」と言われましたから。父の希望で…とは言ったものの、皆さんが会いたかったと思ってくださっているのがひしひしと伝わってまいりました。

 

そして28日に亡くなったことを知って全員が「え?25日に電話で話を普通にしたんですよ」と絶句していたこと。

 

葬儀には出席は流石にできないマダム。病院から葬儀場に送る黒塗りの車に棺を収め、病院のスタッフ全員がそれを見送る厳かな儀式のようなお見送りの場にマダムは正装の黒の装いでいらしてました。もうお会いすることはないでしょう。ありがとうございました、と心の中でご挨拶をいたしました。

その後、マダムとはお手紙のやり取りを時々させて頂いております。


(大学時代応援部主将だった父)

葬儀にて

この時はまだコロナ前でしたので、そんなに焼場が混んでいるということはなかったのですが、目黒の桐ヶ谷斎場になったので家族葬は道を挟んで前にあるお寺で行うことになりました。父と母の兄妹、従兄弟たち。20人足らずのこじんまりした葬儀でした。母方の叔父たちは二人とも妹と同じ病気を発症しており、歩くのも不自由な中集まってくれていました。

 

父は派手なことが好きで人が好きで楽しいことが好きでしたから、本来なら「音楽葬で送ってくれ」などと言っていたのではないかしらと思うのですが、最後に着る服も自分で選んでいて、棺にこっそり入れてくれ、と頼まれていたものが入った袋。きっと中身はマダムとの思い出の品や写真だったのでしょう。

 

私は真っ赤なバラの花束をお見送りの花として棺の上におきました。

病院でもこの次の週から多分、痛みが出始めて苦しくなる時だというのを見計ったように潔く鮮やかに逝かれましたね、と言われたものですが本当に誰に迷惑をかけることもなく、自分で全てをダンドリし、終わった後のことも全部決めて書いておいてくれたのでした。

 

父の遺産というものは驚く程なく、膨大な医療費に充てられていたのと、もしかしたらマダムに贈ったのかもしれませんが、そこは父のものですから父の好きにしたらよくて。妹たちもそれは同じように考えていたようです。ですから、所謂相続争いのようなことは一切なく、これは母が亡くなった時もそうで、間に入った先生に「こういうケースはとても珍しいんですよ」と言われたそうです。

 

先日、ある先生の講座でお聞きしました。
60歳越えてもお金の苦労をし、不運に付き纏われている人にその先生がする決まった質問があるのだそうです。
それは「遺産相続などで兄弟や親と縁を切っていませんか」ということだそうです。

 

ご先祖さまは血を分けたみんなが仲良く繁栄してくれることを望むのですが、争っていたり、縁を切るような行いが1番嫌い。例え、今は一時良くても、必ず金運からも見放されてしまうということを仰ってました。だからこの先生がコンサルをされる場合、必ずそのことをお聞きして、そのようなことがある場合はコンサルは絶対に受けないというそうです。

 

これからそういうことが考えられる方々は肝に銘じておいてくださいね。

 

お別れ会にて

葬儀は家族だけで取り行ったのですが、父の友人たちが偲ぶ会をしたいということで5月だったか60人くらいのそうそうたるメンバーが集まってくださって、父を偲ぶ会を開いてくださいました。

 

お話を伺っていると、父は引き受けたことは必ずやり遂げる、約束を守る人だったと皆が口を揃えて仰ってくださいました。若い頃から母の弟たちの就職の世話をしたり、面倒見のいい父。本田技研の創業者の本田宗一郎の右腕、藤沢武夫氏に可愛がられ、随分と叩き込まれたそうです。

往年、ある大学で企業の国際化について教えておりましたが、なんと生徒の顔とフルネームを全て覚えていたんですよね。記憶力は素晴らしい人でした。

 

集まってくださった皆さんがそうやって昔の父との思い出を語りながら、寂しそうにされるのを私たち姉妹は見せて頂いたのでした。

 

そして、今日3/2は母の誕生日でもあり、父の葬儀の日でもありました。

 

二人からもらったこの命、きちんと使い切りたいとこれを書いてて思うのでした。

この歳になったからこそ、出来ることもあります。またこの歳になったにも関わらず、グズグズしてる場合ではない。そんなのはただの命の無駄遣い。

 

何もできないならせめて毎日に感謝して心からこの世界を楽しめばいい。本当はそれをしにきてるのだから。なのにくだらない義務感や何かしなきゃいけない気になって、何もできてないことに罪悪感を持って生きながらえてる人のなんと多いことか。

 

せめて、そんな人達がこれを読んで自分の純粋な欲望にコミットして生きることをしようと思うきっかけにでもなってくれたら幸いです。

 

私は命をきちんと咲ききらせたい。

そして思うのは、今のこの力があったならもう少し父の時間を延ばせただろうにな、ということ。最後のときまでQOLを上げていくこと。

それができたら、父のように最後まで自分のやりたいことにむかえる方も多くなるのでは…と思いました。5年前のこのことも、今私がこうしたことをしていることに繋がっているのだな、と今回これを書いていて思ったのでした。

 

父の恋バナ

仙台にて

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