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地上の視点を持つ日本語

先日読んだ、金谷武洋著「日本語は亡びない」を読んで先日、長谷川先生の講演会でお聞きした日本人の根底にある自然との調和していく考え方がベースになっている…ということと重なってきた。
日本語はその文構造の中に既に共存共生の思想が組み込まれているのだ。


本書の中では2008年に刊行された水村美苗の「日本語が亡びるとき」に反論して書かれたものであるが、日本語が外来語である漢字や英語をどのように取り込んで、日本語としてきたか…しかも日本語のシステムを壊すことなく…ということがとても面白い。

一部を紹介すれば、一音節で発音される漢字を2つ重ねて哲学・芸術・感覚・統合・分解…などと4モーラで創り上げている。同じように英語にも同じプロセスを踏襲する。
「パソコン・マザコン・ゼネコン・エアコン・ボディコン・ミスコン」と4モーラで作り、この最後の「コン」はこの順番にコンピューター、コンプレックス、コントラクター、コンディショナー、コンシャス、コンテスト、と全く違う意味をもっているにもかかわらずの短縮っぷり。

こうした中に他国のものを日本に合わせてアレンジしてしまうという機能があるというのだ。

 

川端康成の雪国の有名な一節。
国境の長いトンネルを超えると雪国であった」というこの文章。
わたくしたち日本人は汽車に乗る自分が長いトンネルを超えて明るくなった外を見えば、そこはすっかり雪景色だった、という情景を思い浮かべるわけだが。

サイデンステッカー訳では

「The train came out of the  long tunnel into the snow country」

となっているそうだが、何人かの英語を話す人がこの文章を読んだ時に、どのような情景を思い浮かべるのかという絵を描いてもらうと、ほとんどの人が上空から見下ろしたアングルでトンネルとそこから顔を出している汽車を描いたのだそうだ。

 

そもそも原文を訳すときに汽車が主語になってしまうのか…という驚き。

日本人がいかに「対話の場」を大切にする民族かということに驚く、という著者。
こんな一節を紹介ししょう。

ここで大切なのは「対話の場」に<我>と<汝>が一体となって溶け込むということだ。この点が日本文化の基本であるように思えてならない。日本語における<我>は、決して「対話の場」から我が身を引き離して上空から<我>と<汝>の両者を見下ろすような視点は持たない。<我>の視点は常に「いま・ここ」にあり、「ここ」とは対話の場である。

この後に電車のアナウンスの話が出てくる。
「ドアが閉まります」とよく聞くアナウンス。こう言われるから話し手と聞き手が同じ地平にいると感じられるので「ドアを閉めます」と言われるといささか不安になるのは<我>と<汝>が切れてしまうからだという。
なんと!納得だ…

日本語はこの「地上の視点」をもっているという。

西洋人の考え方は自我を切り離していくのに対し、日本人は他との一体感や繋がりを前提とし、自我はできるだけ切断せずに包含していこうとする、という主張に対して なるほど、これが日本語の主語があいまいになっている所以でもあるのか…と思う。

 

最後の頃に水村の言葉を引用している箇所がある。
人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである

 

最近では日本語もままならないうちから英語教育をする親御さんが増えているようだが、それの危険性を説いたお話をつい最近聞いたところだ。またある特殊な能力を解放させるためには自然と大和言葉を使うことがキーだとおっしゃっている先生もいらっしゃる。

 

この共存共生という思想をその言葉の中に内包している日本語、そしてその言葉を用いて思考する日本人という我々。先だっての長谷川先生の講座の中で話されていた、1万5000年もの長きの間、争いのなかった文化、縄文文化…そのDNAというかベースがこの日常使っている言葉の中に既にあるのだ、という気づきが深いというか、何か遥か昔の彼方から今に託されたメッセージのように感じたのだった。

 

 

 

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